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【No.115】平成21年08月11日 昔の新聞記事が出てきました

昔の資料をあさっていたら出てきた、

山陰中央新報の昭和53年9月8日の記事です。

以下本文転記(一部変更)

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 松江のシンボル、大橋川のたもとの毅然とした店構え。その昔、二、三百石船から

七百石の大船まで数々の帆まえ船が往来、松江の「表玄関」と呼ばれただけに、

周りの環境は城下町の面影をそこ、ここにとどめている。二階の間から川面を眺め

ながら四代目店主の淳一(現社長の父)は「転換期にかかったこの商売、なんとか

維持、発展させねば…」とこれからの舵とりに心を配る。

スタートは精米所

 藤本精米所(米穀店の前身)は、初代虎之助が鮮魚の仲買移出商(中海専門)を

していた頃から数えると今から百年もさかのぼる。

 ウナギ、スッポンなどを大阪市場へ出荷、険しい四十曲峠(伯耆美作の国境)を

歩いて越え、岡山から船便で大阪までは三日がかりの仕事であった。明治十七年、

大阪─境間の海上交通が開け、さらに三十八年には馬潟港が開港、阪鶴丸汽船の

就航で大阪直行便は活発となった。この頃は、すでに米穀移出商に転換、養子梅太郎

(のちの二代目虎之助)が先代を助けて、大阪との取引を開拓、稼業は順調であった。

明治の中期までは、自由放任経済下で、米穀取引所を中心とした業界は、企業的にも

評価された時代である。

 当時、大橋川の河畔には船運の便から米問屋が集結して軒をつらねていた。湖北

湖南の海上輸送の米は、帆まえ船によって大船路まで運んで荷揚げされ、河岸には

米穀取引所も設けられ、米為替商、仲買、買子など米商人の店が多く、また市中には

二百軒の小売商があったという。

 初代虎之助は、明治気質の豪気で進取的気性を発揮、遠方の取引に道を開いたが、

明治四十五年、鉄道輸送が大阪まで開通した年に七十一歳で亡くなった。

数字に明るい二代目

 二代目虎之助は、数字に明るく、昔、籠手田知事の中海視察のとき、魚の水揚げを

暗算で帳付したのが目にとまり、称賛を受けていたことが同家の語り草となっている。

当時、島根米は出雲米として格付けされ、移出問屋と県外商との取引は電報の往復で

行っていた。代金決済は荷為替つきで行われお互いの信用と商人間の親密取引で

あった。二代目虎之助は、まじめ一方の性格で、大阪の問屋にも実直と信用を買われ

たが、同業からも「虎さん」と親しまれ、組合の面倒も良くみていた。大正の初期、電動

精米機を備え、精米移出に力を入れ、(分)の出雲一等米として売り出したが好評で、

時には精米作業は昼夜フル運転であった。堂島の期米相場を大阪からのラジオ放送で

キャッチ、その日その日の相場をにらんでの出荷だった。藤本家の基礎は二代目に

よって築き上げられたが、昭和六年五月、突如東本町一帯を焼き尽くした大火で、家屋

倉庫をはじめ、すでに出荷予定の精米七百俵が一夜にして灰になるという惨事に

遭った。満州にいた養女吉子(故人)から災難を知って二千円もの見舞い金が届いた。

虎之助は何はともあれ、工場(精米所)の再建に努力、十月には移出を始めた。

三代目は営団参事

 三代目幸市郎は、松江米穀卸商業組合の常務を兼ね、稼業に励んでいたが、昭和初期

の不況、間接統制施策、生産者の共販体制(全販連)の台頭により、業界の商業機能は

狭められつつあった。十七年、食糧営団設立で全業者は商権放棄となる。幸市郎は営団

の参事に任命され、戦中戦後の配給業務に奔走した。二十六年、民営化制度で、松江

食糧企業組合が結成され、理事長に推され、また島根米穀の役員に就任。市議にも

顔を出し、連続五期議員を務め、三十八年には市議会議長に就任している。

新しい奮起の時代

 三十四年、食糧企業組合は一段の商業活動発展のため解散した。同年三月、現在の

藤本米穀店を復活させたが、長男淳一が責任者となり、新しい奮起の時代へとスタート

した。精米加工設備など先がけて一新し、得意先のサービスに努め、名実共に業界屈指

の米穀店として、歴代店主の志を見事に継承して、官公庁、学校、病院、百貨店などの

外食分野の販路に力を入れる一方、機動力を駆使して市内一円の一般家庭に配達して

いる。今春島根大学農学部を卒業した長男藤本真一郎(二二)も店の一員として、

五代目後継者として勉強中だ。

 昔から米屋は公共性社会的責任の重い仕事。一朝事ある時は、食糧供給の使命が

ある。淳一は「毎日のお米をおいしく食べてもらうためには、時には営利の追求は二の

次となる。現在は米の余る時代だけに経営も工夫を加えねばと痛感している。だが時代が

変われば米穀商としての生き方も変わってくるでしょう」ときょうもまた配達に得意先回り

に忙しい日を送っている。

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祖父の「時代が変われば米穀商としての生き方も変わってくる」との言葉通り、

米の流通を取り巻く環境は、この記事の頃と現在とでは全く異なります。

そして当店の商いも当時とは大きく変わっています。

変えるところと守るところ。

代々受け継がれている大切な部分はこれからも大切に。

先日、お墓の掃除に行きました。

もうすぐお盆です。

 

 

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