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山陰経済ウィークリー「さんいん企業物語」①

山陰中央新報社さん発行の山陰経済誌「山陰経済ウィークリー」に掲載頂きました。

「さんいん企業物語」というコーナーで、4週連続掲載のものです。

 

 

以下、内容を転載します。


【企業物語】藤本米穀店(1)「明治の創業」

(有)藤本米穀店(松江市東本町、藤本真由社長)は1893(明治26)年に創業した老舗。以前はウナギ、スッポンなど鮮魚の仲買移出商を営んでいたが、初代の藤本虎之助が「日本人にとって特別な食料」であるコメに着目し、126年を数える歴史の幕を開けた。代々の経営者たちは優良品種を求めて島根県内の産地を訪ね歩き、その目利きでこだわりのコメを取りそろえ、一貫して「品質と信用」を守り抜いて販売している。近年では、鮮度保持を狙いに精米を立方体に真空包装した「キューブ米」などの新商品を開発するなど新しい需要の開拓にも力を入れている。

 ラジオで相場情報収集

藤本家が鮮魚問屋を始めた時期は定かではないが、明治時代には島根県内で捕れた地場のウナギやスッポンなどを取り扱っていた。松江市内に拠点を置き、船便で岡山県から大阪市場へと出荷していたという。

そんな時代に虎之助は養子として藤本家に入ったが、「生き物を殺生しての商売は好まない」と鮮魚問屋からコメ販売へとかじを切った。

一念発起して米穀店を創業すると、数字に明るく、そろばんなどにたけていた虎之助はラジオをいち早く購入。このラジオで相場の情報を収集し、売りの好機を見計らってはコメを出荷していた。

大正時代初期には電動精米機を備え、「出雲一等白米」として売り出し、消費者から好評を得ていたという。

相場情報を米の販売に生かし売り上げにつなげていた虎之助の元に1915(大正4)年、全国俵米品評会で3等賞に入ったという吉報が舞い込んだ。この表彰は、虎之助が島根県内で栽培された良質のコメにこだわり、販売していたことの証でもあった。

 

焼失免れた表彰状

商売の基礎をしっかりと築いていた虎之助だったが、時代が昭和に変わって間もない31(昭和6)年に思いがけない災難に遭った。

松江市東本町の一帯を焼き尽くす大惨事となった大火が発生。虎之助の家屋や店、倉庫を含めて全焼しただけでなく、出荷を控えて貯蔵していた精米700俵までもが焼失してしまった。

この大火により、藤本家に関する建物や家財道具などは跡形もなく焼失したか見えたが、虎之助が以前に全国俵米品評会で3等賞を受賞し受け取った表彰状は、奇跡的に焼失を免れていた。

この表彰状は、「品質と信用」を守り抜く店の理念の象徴として代々の経営者に受け継がれ、現在も藤本米穀店のレジスペースの一角に掲げられている。

虎之助が全国俵米品評会で3等の表彰を受けたことに対し、現在社長を務める真由(37)は「品質の良いコメを集めてお客さまに届けるという信念は、自分もしっかりと受け継いでいる。この表彰はその伝統のシンボル」と語る。

 

戦時統制からの再起

大火の被害の大きさに途方に暮れた虎之助ではあったが、焼失した店を支援しようという親族からの見舞金が届いたことで気持ちが奮い立ち、店の再建へとこぎ着けることができた。

ところが、再建した店はその後に勃発した第2次世界大戦の戦時統制で42(同17)年に食糧営団に吸収されることになった。この時、配給業務に奔走したのが2代目の藤本幸市郎だった。

藤本米穀店として再スタートを切ったのは、45(同20)年に終戦を迎えてから14年後の59(同34)年。その当時、幸市郎は松江市議会議員としても活動。63(同38)年には議長に就任した。議員活動に力を注いでいたこともあり、再スタート後の店は、幸市郎の長男の藤本淳一が3代目となり、切り盛りするようになった。

淳一は精米設備を一新。学校や病院の給食施設に納入したほか、一畑百貨店の商品としておいてもらうことに成功。このことは、代々守り抜いてきた藤本米穀店の「品質と信用」が認められたからと考えられる。

淳一は、市内の一般家庭への配達も精力的に回った。淳一の長男で現在、藤本米穀店の会長を務める藤本真一郎(63)は淳一について「とにかく熱心な商売人だった」と振り返る。

 

生産者との関係構築

真一郎は、島根大学農学部を78(同53)年3月に卒業。父親の淳一から「店の仕事をやってほしい」と懇願されたことがきっかけとなり、同年4月に藤本米穀店に入った。配達や精米など全般の業務を任され、大学時代とは全く異なる商売という厳しい環境に身を置くことになった。

仕事を始めた当時は食糧管理法があり、農家から直接お米を買うことができなかった時代だった。それでも真一郎は県内のコメの産地に足を運び、生産者との良好な関係を構築していった。